1941年6月の関特演で樺太混成旅団(後にこれを中核として第88師団を編成)が動員され戦時編成となって以来、対ソ静謐の方針に従い情報収集や物資集積に努めていた。ただし、アッツ島玉砕を受け関心が千島の不十分な防備に移ってしまったうえ、対米戦のための陣地構築が樺太南部や東海岸で実施されるようになったため、その進捗は中途にとどまった。 さらには、国境地帯に広がるツンドラが陣地構築の妨げとなった。居留民の避難については、1944年秋に第五方面軍より指示されたが、資材や人員の不足から、上敷香から内恵道路に至る道路を構築できたにすぎず、例えば炭鉱の内地への労働力移出といった、民間側の努力に頼るほかなかった。向地視察隊などによる情報収集の結果、ソ連側の兵力集中が確認されたが、対応は遅々としていた。
樺太でソ連軍を迎え撃ったのは第88師団であったが、主力は米軍来攻が予想される南部、すなわち豊原や大泊にあり、国境付近を含め、北部(真逢 - 久春内以北)に展開していたのは歩兵第125連隊だった。 第五方面軍及び大本営からのソ連宣戦布告の報に接すると、師団は落合にあった歩兵第25連隊に真岡方面への転進を命じ、歩兵第125連隊は国境陣地占領を行ない、平行して国境付近の作業員や警察官家族、開拓団の避難に努めた。8月10日には安別付近の住民に緊急避難命令を発令、西柵丹へと退避させた。また、9日には在郷軍人ら3628名を地区特設警備隊要員として防衛召集、沿岸警備や避難者援護に従事させた。恵須取では8月13日、支庁長により地域、職域ごとの義勇戦闘隊(男子約600名、女子約70~80名)が編成された。 同日、第88師団は樺太庁長官や豊原海軍武官府と「老幼緊急疎開の件」につき緊急会談、13歳以下の男女と14歳以上の婦女子等16万名を北海道へ疎開させる旨決定、8月12日に全市町村に通達した。翌13日には第一船が出発、23日にソ連軍が邦人の島外移動を禁ずるまでに87670名が離島に成功することになる。
南樺太の戦闘
樺太におけるソ連軍最初の攻撃は、9日7時30分武意加の国境警察に加えられた砲撃である。しかし、11日までは斥候兵が出没するのみで、その動きは極めて緩慢であった。これは、ソ連側が、満洲における進捗いかんでは樺太及び千島への兵力を同方面に振り向けることを考慮していたためである。11日5時頃より、樺太方面における主力とされたソ連軍第56狙撃軍団は本格的に侵攻を開始した。ルートは樺太中央部を通る半田経由のものと、安別を通る西海岸ルートの二つに分かれていた。 しかし、ツンドラ地帯ゆえ戦車や重砲の通行可能なルートが限られていたこともあり、その進撃は果々しくなかった。他方、日本軍は方面軍の「積極戦闘を禁ず」という命令(8月10日に解除、ただし無線機材の故障や人員不足による機材置き去りゆえ前線に通じず)のため、専守防御的なものとならざるを得なかった。
だが、国境付近の半田集落において国境警察隊と2個小隊の兵士約100人が抵抗、1個軍団を丸一日にわたり食い止める等の善戦を見せた。ただし、その多くが後に戦死した。国境の10kmほど後方の八方山陣地においては、日本軍第125連隊約3000人が陣地防御を行ったほか、伏兵を配置するなどの挺身奇襲攻撃を実施、時間的猶予を得ることに努めた。その間に非戦闘員の鉄道による後送を実施、これに成功した。 元来樺太は現有兵力でのみ防衛にあたることとされていたが、日本側の航空兵力が皆無だったこともあり、8月12日、在道の航空部隊に出撃が命じられた。しかし、出撃に至ったのは8月14日のことであり、かつ悪天候のため宗谷海峡を越えることなく終わってしまった。 陸上兵力についても増援が企図されたが、日の目を見ることはなかった。また、8月16日未明に実行すべく、北樺太上陸作戦が計画されていたが、終戦の知らせと大陸命により、こちらも中止された。
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しかし、実際の戦闘はこの後も継続し、収束を見るどころかむしろ拡大していった。 15日の時点では、国境の古屯でのみ防御戦闘が続けられていたが、同日ソ連統帥部は真岡・千島への進攻を決断、夜には恵須取攻略船団(13日に一度撃退された為)が再び出航していた。16日には恵須取への再攻撃が開始され、浜市街や太平炭鉱付近などもソ連軍による艦砲射撃と航空機による無差別攻撃があり、追い詰められた太平炭鉱病院の看護婦が集団自決する事件が発生。 これに対し、日本軍は18日の戦闘行動中止命令を受け、連絡を受けた部隊から順に解散していたが、19日以降方面軍から再三自衛戦闘継続が要求される。ソ連軍が南下を続ける限り、という条件付のものではあったが、ソ連側が「停戦には応ずるが、日本軍は無条件降伏したのだから、わが軍は目的地を占領するまで前進する」として取り合おうとしなかったこともあり、実質的には戦闘の継続を意味していた。
真岡へのソ連軍上陸で事態はさらに急を告げる。同地は樺太南西に位置する港町で、ソヴィエツカヤガヴァニから出発したソ連海軍北太平洋艦隊が20日早朝から艦砲射撃を行い、その後上陸し占領した。真岡にあった部隊の多くは当時終戦に伴う師団からの命令により東方の荒貝沢に移動しており、市街に残っていた部隊は管理部隊が殆どだった。このため、犠牲となったのは一般市民であり、ソ連兵の避難民に対する無差別乱射により殺害されたものもあったという。この時同地では、電話交換手が自決した真岡郵便電信局事件や、清水村瑞穂における日本人による樺太朝鮮人虐殺事件も発生した。 同地にあった歩兵第25連隊は、軍使の派遣を考慮し発砲を禁じたが、軍使殺害事件が発生したため自衛戦闘に切り替えた。21日朝には荒貝沢に接敵機動、熊笹峠へ後退しつつ現場指揮官は抵抗を続け、避難民の後方への移動を掩護、23日2時ごろまでソ連軍を拘束していた。
この最中、8月22日に知取にて停戦協定が結ばれるが、赤十字のテントが張られ白旗が掲げられた豊原駅前にソ連軍航空機による攻撃が加えられ、多数の死傷者が出るなど戦火は続いた。同日朝には樺太よりの引揚船「小笠原丸」「第二新興丸」「泰東丸」が留萌沖で潜水艦に攻撃され、「第二新興丸」が大破、他の二船は沈没し1708名の死者と行方不明者を出した。 その後もソ連軍は南下を継続し24日早朝には豊原に到達、樺太庁の業務を停止させて日本軍の施設を接収した。25日には大泊に上陸、樺太全土を占領した。
千島列島の状況と戦闘
アリューシャン列島からの撤退により、千島列島、中でも占守島をはじめとする北千島が脚光をあびる。当初はアッツ島からの空爆に対する防空戦が主であったが、米軍の反攻に伴い、兵力増強が図られる。本土決戦に備えて抽出がなされたのは樺太と同様であるが、北千島はその補給の困難から、ある程度の数が終戦まで確保(第91師団基幹の兵力約25000人、火砲約200門)された。防衛計画は、対米戦における戦訓から、水際直接配備から持久抵抗を志向するようになったが、陣地構築の問題から砲兵は水際配備とする変則的な布陣となっていた。
ソ連参戦後も特に動きはないまま、8月15日を迎えた。方面軍からの18日16時を期限とする戦闘停止命令を受け、兵器の逐次処分等が始まっていた。だが、ソ連軍は15日に千島列島北部の占守島への侵攻を決め、太平洋艦隊司令長官ユマシェフ海軍大将と第二極東方面軍司令官プルカエフ上級大将に作戦準備と実施を明示していた。
18日未明、ソ連軍は揚陸艇16隻、艦艇38隻、上陸部隊8363人、航空機78機による上陸作戦を開始した。投入されたのは第101狙撃師団(欠第302狙撃連隊)とペトロパヴロフスク海軍基地の全艦艇など、第128混成飛行師団などであった。日本軍第91師団は、このソ連軍に対して水際で火力防御を行い、少なくともソ連軍の艦艇13隻を沈没させる戦果を上げている。
上陸に成功したソ連軍部隊が、島北部の四嶺山付近で日本軍1個大隊と激戦となった。日本軍は戦車第11連隊などを出撃させて反撃を行い、戦車多数を失いながらもソ連軍を後退させた。しかし、ソ連軍も再攻撃を開始し激しい戦闘が続いた。18日午後には、日本軍は歩兵73旅団隷下の各大隊などの配置を終え有利な態勢であったが、第5方面軍司令官の命令に従い、第91師団は16時に戦闘行動の停止命令を発した。停戦交渉の間も小競り合いが続いたが、21日に最終的な停戦が実現し、23・24日にわたり日本軍の武装解除がなされた。
それ以降、ソ連軍は25日に松輪島、31日にウルップ島という順に、守備隊の降伏を受け入れながら各島を順次占領していった。南千島占領も別部隊により進められ、8月29日に択捉島、9月1日~4日に国後島・色丹島の占領を完了した。歯舞群島の占領は、降伏文書調印後の、3日から5日のことである。
停戦
外地での戦闘が完全に収束する前に、日本政府はポツダム宣言を受諾し、終戦詔書が発布された。このことにより攻勢作戦を実行中であった部隊はその作戦を中止することになった。しかしソ連最高統帥部は「日本政府の宣言受諾は政治的な意向である。その証拠には軍事行動には何ら変化もなく、現に日本軍には停戦の兆候を認め得ない」との見解を表明し、攻勢作戦を続行した。そのため、日本軍は戦闘行動で対応するほかなく、関東軍とソ連軍の停戦が急務となった。連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は8月15日に日本の天皇・政府・大本営に対して戦闘停止を命じた。この通達に基づき、8月16日、関東軍に対しても自衛以外の戦闘行動を停止するように命令を出された。しかし、当時の関東軍の指揮下にあった部隊はほぼすべてが激しい攻撃を仕掛けるソ連軍に抵抗していたために、全く状況は変わっていなかった。
8月17日、関東軍総司令官山田乙三大将はソ連側と交渉に入ったが、極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキー元帥は8月20日午前まで停戦しないと回答した。これにマッカーサーは要求を強め、ついに8月18日に一切の武力行動を停止する命令を出し、これをうけ日本軍は各地で戦闘停止し、停戦交渉が本格化することとなった。同日、ヴァシレフスキーは、2個狙撃師団に北海道上陸命令を下達していたが、樺太方面の進撃の停滞とスタフカからの命令により実行されることはなかった。
8月19日1530(極東時間)、関東軍参謀長畑中将は、ソ連側の要求を全て受け入れ、本格的な停戦・武装解除が始まった。8月24日には、スタフカから正式な停戦命令が届いたが、作戦は9月始めまで続けられ、ソ連軍は満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島を占領した。
前線部隊の状況
対ソ防衛戦は満州国各地、及び朝鮮半島北部などにおいて広範に行われた。全体的には日本軍が終始戦力格差から見て各地で一日の間に陣地を突破される事態が各地で発生し、突破された部隊は南方への抽出を受けて全体的に戦力が低下しており戦況を立て直すことができず、いとも簡単に前線陣地を突破され壊走することがほとんどであった。
しかし、編成が終了したばかりの新兵と装備が不十分という寡弱な部隊を、強大なソ連軍が進撃してくる戦場正面に投入したが、交戦前に混乱状態に陥った部隊は皆無であった。例えば第5軍は、絶望的な戦力格差があるソ連軍と交戦し、少なからぬ被害を受けたものの、1個師団を用いて後衛とし、2個師団を後方に組織的に離脱させ、しかも陣地を新設して邀撃の準備を行い、さらに自軍陣地の後方に各部隊を新たに再編して予備兵力となる予備野戦戦力を準備することにも成功している。是には非常に優れた指揮の下で円滑に後退戦が行われたことが伺える。
また既存陣地(永久陣地及び強固な野戦陣地)に配備された警備隊は、ほぼ全てが現地の固守を命じられていた。これは後方に第二、第三の予備陣地が構築されておらず、また増援が見込めない為である。そのため後退できない日本軍の警備隊は、圧倒的な物量作戦で波状攻撃をかけるソ連軍に対して各地で悲愴な陣地防御戦を行い、そのほとんどが担当地域で壊滅することになった。ここで注目すべき点は、戦闘力が寡弱な中隊・小隊であるにも拘らず、事前に防御すべき守備線を捨てる部隊がなく帝國陸軍発足以来の敢闘精神を発揮し、大挙満州国に侵入してきたソ連軍をみてもその戦闘開始以前において個人的に離隊した兵士が一人が見当たらないことである[1]。
在留邦人の状況
日本軍の一切の武力行動禁止が命じられ、ソ連軍が満州各地に進駐してくると地域の在留邦人は悲劇的な事態に追い込まれていく。ソ連軍首脳部は日本軍と日本人に対する非人道的な行為を戒めていたが、ソ連軍の現地部隊はそれを無視しており、正当な理由のない発砲・略奪・強姦・車両奪取などが堂々と行われていた。また推定50万人の避難民が発生し、飢餓と寒さで衰弱していった。関東軍は当時、武装解除が行われており、具体的な対応手段は完全に封殺され失われていた。
このような逼迫した状況下で関東軍の現地責任者は、一刻も早くこの現状下に鑑み現地での状況を東京に逐次伝え、ソ連に対してこのような事態を一刻も早く改善するようにと外交的交渉を早く進展するようにと求めることが限界であった。この時点で本来なら関東軍を指揮督戦して励ます筈の上層部はすでに航空機等で本土にいち早く退避しており、満州国に残された現地の責任者等は、このような現地状況を日本政府に電報を使用して再三に渡って送り続けた。一方日本政府は連絡船などによる内地向け乗船に満州からの避難民を優先するようにと本土より打電をして取り計らっていた。
このとき内地に戻ることができず現地に留まった在留邦人は中国残留日本人と呼ばれており、日中両国の政府やNPOによる日本への帰国や帰国後の支援などにより問題の解決が図られているが、終戦から60年が経た後でも完全な解決には至っていないのが現状である。また、樺太では在樺コリアンの問題が残っている。
参考文献
防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北東方面陸軍作戦 <2> 千島・樺太・北海道の防衛』朝雲新聞社(昭和46年3月31日発行)
防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍 <2> 関特演・終戦時の対ソ戦』朝雲新聞社(昭和49年6月28日発行)
金子俊男『樺太一九四五年夏-樺太終戦記録-』(1974年4月28日第4刷)
秦郁彦『日本陸海軍総合辞典』東京大学出版会(1996年9月10日第4版)
ソ連対日宣戦布告
第二次世界大戦
満州国
占守島の戦い
シベリア抑留
真岡郵便電信局事件
葛根廟事件
北方領土
小笠原丸
上野石之助