2009年06月22日

アヴァロン(Avalon、おそらくケルト語)

アヴァロン(Avalon、おそらくケルト語でリンゴを意味する「abal」から)、またはアヴァロン島はイギリスのどこかにあるとされる伝説の島であり、美しいリンゴで名高い楽園であったとされる。このような「恵みの島(Isle of the Blessed)」という概念は、インド=ヨーロッパ系の神話には同様の例が多くあり、たとえばケルト神話のティル・ナ・ノーグ(Tír na nÓg)やギリシア神話のヘスペリデスの園(Hesperides、同様に美しいリンゴで知られる)などが有名である。

アヴァロンはまた、イエスがアリマタヤのヨセフとともにイギリスを訪れ、後にそこがイギリス最初のキリスト教会となったという伝説の場所としても語られる。この場合のアヴァロン島の場所は、今日のグラストンベリーではないかと考えられている。
日本の物語
私たちの憲法
ハムスター
大気のお話
住宅用語
野菜事典
知って得証券語
南北朝時代
栃木の湯めぐり
蘭の世界紀行
空手道
歯周炎
植物園
銀行
商社
フェンシング
アパレル
映画祭
肝炎
お化け屋敷


アヴァロンはアーサー王物語と特に強く結びついている。アヴァロンはアーサー王の遺体が眠る場所とされる。モードレッドとの戦いで深い傷を負った彼は、アヴァロン島での癒しを求めて三人の湖の乙女(あるいは異父姉のモーガン・ル・フェイ)によって舟で運ばれ、この島で最期を迎えた。いくつかの異説によれば、アーサー王は未来のいつかに目覚めるため、ここで眠っているだけだという。

アーサー王とアヴァロン島は、12世紀の歴史著作家であるジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』において初めて結び付けられ、それによるとアーサーはモードレッドとの戦いで致命傷を負い、その傷を癒すためにアヴァロン島に運ばれた、とある。

2009年06月05日

東山道巡察使の淡海三船は聡明だが

767年(神護景雲元年)6月5日 (旧暦) ― 東山道巡察使の淡海三船は聡明だが自らの栄達を願い国司等の検察評価を厳しく報告した。下野国司等は不正を行っていたが、三船は前介の弓削薩摩の罪として薩摩を不当に職務に就かせなかった。これにより三船は現職から解任された。昨今、人を検め裁く者が法の文言に拘泥し正しい道理をもって判決していない。これは官吏の道に沿うものではない。今後このようなことがある場合は法をもって裁くこととする。〔続日本紀〕
770年(宝亀元年)8月21日 (旧暦) ― 称徳天皇の崩御に伴い、宇佐八幡宮神託事件に連座した道鏡が造下野薬師寺別当として下野国に下向する。〔続日本紀〕
771年(宝亀2年)10月27日 (旧暦) ― 武蔵国は元来山道に属し、(使節は)直に下野国足利驛に至るところを枉げて上野国邑楽郡から5驛を経て武蔵国に至り、これを返して下野国に向かうため疲労が大きくなる。武蔵国は海道も兼ね東海道は相模国府から4驛にて下総国府に至っており(使節の)往来に便利である。よって、武蔵国を東山道から東海道に改めれば、取れば公(使節)私にわたり便利で人馬も休養できる、と奏上され光仁天皇はこれを許可した。これにより武蔵国は東海道に転属された。〔続日本紀〕
772年(宝亀3年)4月7日 (旧暦) ― 下野国が造薬師寺別当の道鏡が亡くなったことを光仁天皇に伝える。庶人の格式にて葬られた。〔続日本紀〕
772年(宝亀3年)10月11日 (旧暦) ― 下野国が奏上した。「管内の百姓が陸奥国に逃亡すると、陸奥国は太政官符をもって受け入れています。姦偽の輩は争って課役を避け陸奥国に逃れたものは870人になります。下野国司はこれを禁じていますが止めることが出来ません。使者を遣わして確認させましたが、陸奥国は蝦夷寄りで民情が険悪であり、これを囲って相いに隠し合うため見出すことができません。」太政判官は判定した。「陸奥国司は下野国使とともに検めて、本の郷に還させること。」〔続日本紀〕
773年(宝亀4年)2月6日 (旧暦) ― 下野国で火災があり、正倉14宇、穀糒23,400斛が焼失した。〔続日本紀〕
775年(宝亀6年)3月2日 (旧暦) ― 下野国ほか22国に始めて少掾、大目、少目計46人が配置された。〔続日本紀〕
775年(宝亀6年)7月16日 (旧暦) ― 下野国が、都賀郡の黒鼠数百匹が草木の根を数十里に亘って食べてしまった、と言上する。〔続日本紀〕
775年(宝亀6年)10月13日 (旧暦) ― 出羽国が蝦夷対策で国府を遷すため兵996人を派遣するよう言上したため、下野国ほか相模、武蔵、上野の4国の兵士が遣わされた。〔続日本紀〕
776年(宝亀7年)5月2日 (旧暦) ― 出羽国志波村で賊が反逆したため応戦したが官軍が不利となり、下野国ほか下総、常陸等から発した国騎兵がこれを征伐した。〔続日本紀〕
777年(宝亀8年)5月25日 (旧暦) ― 下野国ほか相模、武蔵、下総、越後に鎧200領を出羽国鎮所に送るよう依頼が出た。〔続日本紀〕
782年(延暦元年)5月3日 (旧暦) ― 下野国安蘇郡主帳の外正六位下若麻続部牛養が軍粮を献じて外従五位下を授かる。〔続日本紀〕
789年(延暦8年)7月25日 (旧暦) ― 下野、美作の両国が飢饉となったため、救済した。〔続日本紀〕
796年(延暦15年)11月21日 (旧暦) ― 下野国ほか相模、武蔵、上総、常陸、上野、出羽、越後等の国民9,000人が陸奥国伊治城に遷置される。〔日本後紀〕
798年(延暦17年)6月21日 (旧暦) ― 下野国ほか相模、武蔵、常陸、上野、出雲等に対し以下のように勅される。「帰降する夷俘には仁徳を施し、慈しみ恵んだので、命令することなく帰降を望むようになり、毎年服・禄・物を与えるので、その資粮が絶しかねない。また慈しみ恵むあまり、事は時節の饗賜の類にまで及んで、国司達はこれを命ずることが横行している。時節の饗賜は自所内で収め、先ずは申し出て、その後で実行するように。」〔類聚国史〕
802年(延暦21年)1月11日 (旧暦) ― 下野国ほか駿河、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、常陸、信濃、上野等の浪人4,000人が陸奥国胆沢城に配された。〔類聚国史、日本紀略〕
802年(延暦21年)9月3日 (旧暦) ― 下野国ほか全31国で田が損害を被ったため、租税徴調が免除された。〔類聚国史〕
818年(弘仁9年)7月 ― 下野国(ほか相模、武蔵、常陸、下総、上野等)で地震が起きる。数里に亘って山が崩れ谷が埋まり、多数の百姓が圧死した。〔類聚国史〕
823年(弘仁14年)3月19日 (旧暦) ― 吉弥侯部道足女(下野国芳賀郡の人)が、村民の手本としてその行いが称えられ、少初位上の位階を授かり、田祖が終身免除された。〔類聚国史〕
824年(天長元年)11月14日 (旧暦) ― 下野国人の三村部吉成女が、旌節の行いにより終身の田祖が免除された。〔類聚国史〕
831年(天長8年)5月23日 (旧暦) ― 下野国の田地の400町5段を勅旨田とした。〔類聚国史〕
835年(承和2年)2月23日 (旧暦) ― 下野国武茂神が従五位下を奉授する。〔続日本後紀〕
836年(承和3年)12月25日 (旧暦) ― 下野国従五位上勲四等二荒神が正五位下を奉授する。〔続日本後紀〕
838年(承和5年)9月6日 (旧暦) ― 下野国那須郡三和神が官社を受託する。〔続日本後紀〕
841年(承和8年)4月15日 (旧暦) ― 下野国正五位下勲四等二荒神が正五位上を奉授する。〔続日本後紀〕
848年(嘉祥元年)8月28日 (旧暦) ―下野国正五位上勲四等二荒神が従四位下を奉授する。〔続日本後紀〕
857年(天安元年)11月17日 (旧暦) ― 下野国従三位勲四等二荒神に封戸1戸が充てられる。〔日本文徳天皇実録〕
858年(天安2年)4月15日 (旧暦) ― 下野国に大掾少掾各1名計2名をおくこととなる。〔日本文徳天皇実録〕
859年(貞観元年)1月27日 (旧暦) ― 下野国従三位勲四等二荒神が正三位に進階する。〔日本三代実録〕
859年(貞観元年)4月7日 (旧暦) ― 下野国で大風の被害が出たのでこれを救済した。〔日本三代実録〕
860年(貞観2年)9月19日 (旧暦) ― 下野国正三位勲四等二荒神社に始めて神主を置く。〔日本三代実録〕
863年(貞観5年)5月2日 (旧暦) ― 下野国が准大国に制定される。〔日本三代実録〕
863年(貞観5年)10月7日 (旧暦) ― 下野国従五位上勲五等温泉神が従四位下を奉授する。〔日本三代実録〕
865年(貞観7年)12月21日 (旧暦) ―下野国正三位勲四等二荒神が従二位を奉授する。〔日本三代実録〕
審美歯科 キャッシング 子育て メンタル 実益 包茎 生活雑貨 スクール 健康食品 学習 中国四国 ケア 予約 ネイル 金融 生命 建売 新築 リフレ 防犯 アロマ パソコン 文房具 教育 地域情報 健康 海外 やせる 不動産 懸賞 投資 興信所 興信所 リフレ 生命 アロマ サプリ 学習 生涯学習 生涯学習 産業 ケア ビジネス ネイル 介護サービス ブログ アロマ 引越し 美容整形

869年(貞観11年)2月28日 (旧暦) ― 下野国従二位勲四等二荒神が正二位に進階する。また、従四位下勲五等温泉神が従四位上を奉授する。〔日本三代実録〕
874年(貞観16年)閏4月25日 (旧暦) ― この日より3日間、60名の僧が平安京紫宸殿において大般若経の伝読を行い、金字仁王経71部を五畿七道各国に1部ずつ安置する。また下野薬師寺、大宰府観世音寺、豊前国弥勒寺(宇佐神宮の神宮寺)に各1部を別途配置する。〔日本三代実録〕
875年(貞観17年)5月10日 (旧暦) ― 下総国の俘囚が反乱を起こし官庁や寺社を焼き払い良民を殺戮したと、下総国司甘楽麻呂が奏言してきた。このため、下野国ほか武蔵、上総、常陸等に各300人の兵の発動命令が出された。〔日本三代実録〕
875年(貞観17年)6月19日 (旧暦) ― 下野国が(下総国に出兵し、)反乱した俘囚89人を殺害または捕獲したと言上する。〔日本三代実録〕
875年(貞観17年)7月5日 (旧暦) ― 下野国が(下総国に出兵し、)賊徒27人を討殺し4人が投降して来たと言上する。〔日本三代実録〕
875年(貞観17年)12月27日 (旧暦) ― 下野国従五位下伊門神が従五位上を奉授する。〔日本三代実録〕
878年(元慶2年)4月28日 (旧暦) ― 元慶の乱に対し下野および上野両国から1,000ずつの兵が徴発される。〔日本三代実録〕
878年(元慶2年)9月16日 (旧暦) ― 下野国賀蘇山神が従五位下を賜る。〔日本三代実録〕
879年(元慶3年)3月9日 (旧暦) ― 下野国正六位上綾都比神が従五位下を奉授する。〔日本三代実録〕
879年(元慶3年)6月26日 (旧暦) ― 元慶の乱が鎮圧されたため軍が解かれ、官軍として従軍していた下野国前権少掾従七位下雀部茂世、権医師大初位下下毛野御安が他国の軍士とともに国許へ帰還したと奏言された。〔日本三代実録〕
880年(元慶4年)8月29日 (旧暦) ― 下野国従五位下三和神が正五位上を奉授する。〔日本三代実録〕
881年(元慶5年)5月2日 (旧暦) ― 下野国を準大国とする。〔日本三代実録〕
882年(元慶6年)12月13日 (旧暦) ― 下野国が連理樹が獲れた事を言上した。〔日本紀略〕
885年(仁和元年)2月10日 (旧暦) ― 下野国正五位上三和神が従四位下を奉授する。〔日本三代実録〕

2009年05月02日

キファ (ビーズ)

野路菊 トラベルナビ
ハムスター最新コスメチックネット
ゴディバ 経済支援紹介
ヴイラホワイトライフレシピナビ
くるみの樹女性の健康COM
プードルかしこい通販紹介サーチ
塾・英会話関連教育ランド総合
ビークール 旅の宿泊ナビ
コーンバレーコスメチック倶楽部ナビ
キルティング マネー経済検索エンジン

キファあるいはキファビーズ (Kiffa beads) はガラス粉を焼結した穴のあいたガラス玉(ビーズ)のこと。再生ガラスによるとんぼ玉の一種。

1949年に民族学者のR. Maunyがモーリタニアのキファ市周辺で発見したことから『キファ』と呼ばれる。 縦縞模様のはいった二等辺三角形のものが有名。

アフリカには、17世紀頃に奴隷貿易を通じてガラス(主にベネチアングラス)がもたらされたが、ガラス産業は発展しなかった。 破損したガラスを粉にして型に詰めて焼成する技法が編み出され、ガラスビーズなどが製作された。 キファは低温で焼成されているため、他のガラスに比べ脆い。


2009年04月18日

旧車會(きゅうしゃかい)

旧車會(きゅうしゃかい)とは、旧車と呼ばれる古いバイクの愛好者による組織、或いは団体のこと。「會」(「会」の旧字体)を用いるが、「舊」(「旧」の旧字体)は用いないのが表記の特徴。旧車会とは、全くの別物である。

旧車會は1970年代から1980年代に製造されたオートバイ(旧車)に乗り、レストア、改造、歓談やツーリング等を行う。メンバーは社会人が多く、ツーリングは主に休日の昼間に行われる。所有するオートバイは現在製造していないものが多く、現存しないメーカーのものもある。他の組織、団体と同様、所有オートバイのメーカーや車種、シリーズや、または改造、レストアの方針、趣味指向を同じくするメンバーで結成される場合もある。

しかし近年は一部の雑誌などの影響により、その傾向が違法改造車による成人版暴走族と化しており、騒音や違法改造、共同危険行為などの交通違反によって社会問題化している。

1970年代から1980年代(あるいはそれ以前)の車両愛好者の健全な集まりである旧車「会」と、違法改造車両で騒音などの迷惑行為を目的とする成人暴走族・旧車「會」とに分かれているのが現状である。
ヨツバ コルヒチ モネ しおざけ ネルガ ポッド あめりか フレーズ めいわ ラッピ ビンカミン ハザード ソロモン サブライ イシミカ ナシ ティング トラス プライス インチ ネオン コスト ミラショーン レコード カカオマス 白い微笑 ハンドメイド チェンジ Sロガー レンディー パネル 霜の花 レモン テレワ スター ラオオ チュニス ナビラメ きょくし ぽろり モデラート レンジ はさま ハマメリス プログラ ルフィ アゲート フクジ トリッキー マツバ

高齢化・暴走化
「旧車会」は、まったく暴走族とは異なり、暴走行為や不正な改造を目的とはしていない。しかし、名称に旧漢字を用いた「旧車會」と呼ばれる集団は、暴走族のOB、もしくは20代を超えて暴走行為をおこなう人々により構成され、道路交通法違反等で検挙される事例[1][2]が非常に多い。しかし旧車会と旧車會という表記の使い分けは広く一般に認知されているとはいえず、これらが同じ集団として混同されている場合も多い。[3]また健全な「旧車会」の中にも旧漢字(會)を用いた名称を持つグループがあることから、名称だけでは健全なクラブか暴走集団なのか判断するのが難しいという面もある。

旧車會における改造の多くは、1980年代から1990年代における暴走族そのものであり、違法改造である場合が多い。しかし改造面以外で、信号を守り、ナンバーを隠ぺいせず、ヘルメットを着用するといった変化も、昔の暴走族とは違ったスタイルとなっている旧車會の特徴でもある。

2009年04月03日

公傷制度

公傷制度(こうしょうせいど)は、かつて大相撲において、横綱以外の力士が本場所の取組において発生した怪我による休場については、通常の休場(休みの日数によっては負越扱い)とはしないようにする制度であった。

公傷が認められた場合、その場所は休みを負けに換算して番付を編成するが、次の場所は休場しても、その次の場所は同じ地位に留まれる(ちなみに昭和58年までは同じ地位に張り出される形であった)。公傷は1回の怪我につき、1場所までの全休が認められた。
ン新世紀 パートナ フコキ センター 真実の愛 オクシ ピンク バッハ マーケッ イスト バッテラ ショットバ レーシ ストラ パンク テレック オクシ スイッチ イエローサ バレル プノンペン 旅への扉 ロック しょうなん ベール スポイト こごみ グース ビンデ ロブス シャーレ リビエラ レーム ガクア スピン ラムネ カナキン トロポニン データフ ほろのべ マイセン テンポラリ きょうきょ ピングカー ザイソ ズロース プレート チュービ ンチェーン シラカン

歴史 [編集]
かつては年2場所だったため必要はなかった。例えば1年休んだ場合、現在では6場所の長期休場だが、当時は2場所の休場でしかないため、よほどの重症でもない限り挽回は可能だった。その後本場所が増えたことで、負傷による休場の影響が大きく出るようになっていった。昭和46年7月場所で、藤ノ川(現伊勢ノ海)と増位山(現三保ヶ関)とが負傷し、回復不十分のままに翌9月場所に強行出場したこと、10月11日に横綱玉の海が現役のまま亡くなったこと、11月場所において、元小結でその場所前頭4枚目の龍虎が左アキレス腱を断裂し長期休場を余儀なくされた(休んでいる間に幕下42枚目まで番付を下げた)ことをきっかけに、翌昭和47年1月場所から取り入れられた制度である。最初の適用者は1972年5月場所の、幕下の宍戸であった。宍戸は同年3月場所の対朝ノ花(のち若三杉、横綱2代若乃花、現間垣)戦で右膝関節を脱臼し、初めて公傷が認められた。

当時、他のプロスポーツには公傷制度がなかったことから適用基準も厳しく、「土俵で立ち上がれたら公傷にはしない」「古傷の再発は公傷にしない」と言われていた。昭和54年5月場所、前場所を肩の脱臼で休場した十両力士・千代の富士(現九重)が、公傷の認定がされなかったために場所途中(3日目)から出場した。これをきっかけに、千代の富士は相撲ぶりを出足を重視するものに変え、それが横綱昇進につながった。また、当初は大関だけは公傷制度の適用対象外であった。しかし、徐々に適用範囲が広がり、昭和58年からは大関も公傷制度の適用対象となった(適用第1号は昭和58年9月場所で負傷した朝潮(現高砂)であった)。さらに平成に入ると「全治2ヶ月以上なら公傷」と言われるまでになり(「やたらと全治2ヶ月の診断書が出て来る」ともいわれた)、場所中の休場力士の増加につながったため、平成15年11月場所を最後に廃止された。幕内で初適用された力士は昭和48年5月場所の丸山、最後に適用されたのは琴ノ若(現佐渡ヶ嶽)。制度不適用第1号は当時十両の若天狼である。廃止前に、制度を維持したまま運用の改善でしのごうとしたこともあったが、大関武双山(現藤島)が公傷を認められずに角番になった場所で強行出場して勝ち越してしまったこと、武双山の師匠でもある武蔵川理事(現理事長)が「なぜ武双山の公傷を認めなかったのか」と理事会で審判部を追及したことから、「必要のない公傷を申請している力士がいる」「認めたり認めなかったりしたらそれぞれの力士の師匠に突っ込まれてどうにもならない」という認識ができ、廃止に至った。

懸賞 (相撲)

懸賞(けんしょう)は大相撲の取組で勝利した側の力士に授与される金銭の意。

2008年(平成20年)現在、幕内力士の場合1回の取組で1本につき6万円が協賛する企業・団体から提供される。1本が6万円になったのは1991年(平成3年)5月場所からである。申し込みは原則として取組4日前まで、取組指定は取り組み前日(千秋楽除く)の14時までを期限とする。

懸賞金6万円のうち、5千円は日本相撲協会の事務経費(取り組み表への掲載費、会場内の懸賞提供アナウンス費及びその際の企業・団体名含め15字以内のキャッチコピー費)として、2万5千円は納税充当金(幕内力士の所得税は30%~40%、この納税充当金は引退時に本人に還付される)として獲得者本人名義の預り金として天引きされるので、勝利力士は勝ち名乗りに際し懸賞1本当たり手取りで現金3万円を受け取る。 なお、現金が包まれている熨斗袋(封筒)は東京の麻布十番にある長門屋商店で制作されている。

場内アナウンス例

単数「この取組には、フリー百科事典のウィキペディアより、懸賞があります。」
複数(2つの場合)「この取組には、フリー百科事典のウィキペディア、並びに、誰でも記者になれるウィキニュースより、懸賞があります。」
複数(3つないしそれ以上の場合)「この取組には、フリー百科事典のウィキペディア、誰でも記者になれるウィキニュース、並びに、投稿・編集自由な辞書のウィクショナリーより、懸賞があります。」
仕切中に土俵の回りを呼出が旗のような懸賞幕(縦120cm、横70cm)を持って回る場合があるが、これは取組に懸賞金がかけられた時に見られるもので、スポンサーの企業名や商品名が書いてある。公共放送であるNHKのテレビ中継では、広告になるという判断から、この場面になると遠景からの土俵の撮影に切り替えてスーパーを被せ、懸賞を掛けたスポンサー名が読み上げられるため場内音声を絞った上から解説のコメントを被せる(ただし懸賞の本数を放送で言う時はある)。
月のかげ ラビオリ サターン ドレス りんね テクノ ブッシュ スパイダ オーバー ブイエ ふたり星 天下り カウント ターボト リフォ プロライツ ロデオ ワーク ション 雲水 会津か シルバ カマーバ バッファー デビット ガボンド ジャップ ティー あの町 スペア ポール ブイトール ローリング オートミー トルマ ビュー ワッフ セサミ ナビマス モチの木 へんぱ シャーマ アカウンテ ストーク ナレータ しちか ブリックス タンパ アカハラ ロケハン

横綱・大関クラスの取組ともなると、かなりの数(多い場合には40本以上)の懸賞がかけられる。2005年(平成17年)9月場所千秋楽結びの一番、朝青龍vs栃東では史上最多の49本の懸賞がついた。さすがにこれだけの数になると、制限時間の間懸賞の垂れ幕が土俵を回り続けることになり、仕切りの緊張感を殺ぐとして批判意見も出た。そのため、2006年(平成18年)1月場所からは1つの取組につき50本(地方場所のみ。東京場所は51本)までという制限が設けられることになった。2006年(平成18年)9月場所千秋楽結びの一番、朝青龍vs白鵬において初の制限いっぱいの51本の懸賞がかけられた(後述する森永賞を含む、ただし東京場所においては記録に並ばれるチャンスはある)。但し横綱クラスでも場合によってはその限りではなく、2008年1月場所において、朝青龍の取組にかけられた懸賞は、謹慎処分明けということもあって横綱としては異例の2本であった。[1]

懸賞金は原則中入後の取組に懸けられ、十両力士同士の取組には懸けられない(唯一の例外として昭和45年の輪島vs長浜(豊山))。原則として一場所15日間、毎日懸賞を出すことが求められていたが、2000年からは5本以上であれば1日だけでも懸賞を出す事ができ、また同じ取組に複数本懸賞を出せるようになった。その形式は、後援する力士の取組すべてにかけたり、出場力士にかかわらず結びの一番には必ずかけるなど、さまざまである。

森永賞 [編集]
森永賞とは森永製菓協賛の懸賞金。国技館での1・5・9月場所に限り、観客が森永キャラメルの空き箱にその日の注目取り組みを1番選んで投票する。投票は十両の取り組みが行われる15時半ごろまで。中入り時に森永賞の対象取り組みが発表され、その取り組みで勝った力士に森永製菓からの懸賞金が、またそれを投票した観客にも抽選で記念品(主に森永製品の詰め合わせ)が贈賞される。必ず懸賞の宣伝は最後となる。同様な例に大関、山崎帝國堂の毒掃丸等が挙げられる。


作法 [編集]
懸賞のかかった一番では、行司は勝ち名乗りの後で、軍配の上に懸賞袋を乗せ、勝ち力士に差し出す。

勝ち力士はこれを右手で、みっつ手刀を切ってから受け取るのが現在では普通になっている。これは昭和の大関・名寄岩からはじまったもので、彼以前にはもっと無造作に受け取るのが普通だったが、名寄岩がこれを無作法で見た目にも良くないとして始めたものを他の力士も次第に真似るようになった。

名寄岩によれば、みっつ手刀を切るその意味は、〝心〟という字を描くということで、手刀の切りかたも(右利きの場合で)左→中央→右の順だった。「勝負をつかさどる三柱の神への感謝の意で、左→右 →中央の順で手刀を切る」という、現在の解釈とはやや異なっている。もっとも懸賞を受け取ったあと右に払い心の字を切る力士も多い。

懸賞金の制度自体古来の伝統に基づいているものではないので、手刀を切る手の左右に関しては取り決めも存在しない[1]。そのため、右利きの力士は右で、左利きの力士は左で切る場合が多かった。しかし、左利きである横綱朝青龍が左手で手刀を切って懸賞金を受け取ったときに、横綱審議委員会の内舘牧子がそれを問題視し、以後、右手で手刀を切ることが暗黙の取り決めとなった。これに関しては、朝青龍に対する個人攻撃ではないかという批判もある。

^ ただし、あまり各力士の手刀の切り方がまちまちなのを見かねた元双葉山の時津風理事長から、「右手で、左、右、中央と手刀を切るのを原則とする」との通達が出されたことがあり、見方によってはこの理事長通達が現在も有効とすることもできる
懸賞本数の記録 [編集]
1つの取組にかけられた懸賞の本数は、長らく 1964年(昭和39年)1月場所の栃ノ海 -大鵬(14日目)、栃ノ海 - 豊山(千秋楽)の26本が最多であったが、2004年(平成16年)1月場所の朝青龍 - 千代大海(14日目)に27本の懸賞がかけられて以降、その本数が急増した。

ランキング [編集]
1位:51本 朝青龍明徳 - 白鵬翔(平成18年9月場所千秋楽)
2位:49本 白鵬翔 - 朝青龍明徳(平成20年3月場所千秋楽)
2位:49本 朝青龍明徳 - 栃東大裕(平成17年9月場所千秋楽)
2位:49本 朝青龍明徳 - 白鵬翔(平成20年5月場所千秋楽)
3位:48本 朝青龍明徳 - 白鵬翔(平成19年5月場所千秋楽)
3位:48本 白鵬翔 - 朝青龍明徳(平成20年1月場所千秋楽)
5位:47本 朝青龍明徳 - 栃東大裕(平成17年7月場所千秋楽)
5位:47本 朝青龍明徳 - 栃東大裕(平成17年5月場所千秋楽)
※片方(両方)に横綱がいる時に限る

場所記録 [編集]
1位:1021本 平成18年9月場所
2位:978本 平成18年5月場所
3位:968本 平成18年1月場所
4位:925本 平成17年9月場所
5位:883本 平成17年1月場所
個人では平成17年1月場所朝青龍明徳が記録した290本

(記録は1991年5月場所以降、2006年9月場所現在)

過去の時代の懸賞 [編集]
江戸時代には、感動した取組に対しては、見物客は自分の着物を土俵に投げてその意をあらわした。その着物はあとあと、力士自身やその付け人の手で持ち主に返され、持ち主はそれと引き換えに何らかの報償を手渡した。現在でも、大金星や番狂わせがあった時など記憶に残る一番で、会場に座布団が舞う光景が見られるのはこの習わしに由来するのだが、本来の意味はほぼ失われている。

天覧相撲や上覧相撲での勝者には特に、羽織、刀、弓などが下賜された。弓取り式は、寛政3年(1791年)の上覧相撲で将軍徳川家斉から弓を賜った谷風梶之助が、これを手に舞ってみせたのがはじまりとされている。また現在でも本場所の千秋楽結び3番「これより三役」では、勝者に弓矢が贈られる。

戦後期の昭和20年代には、米・味噌などの食料品が懸賞に出されることも多かった。現在の様に一律の懸賞金になったのは昭和35年(1960年)9月場所から。

その他 [編集]
同一企業が一つの取組に対し複数の懸賞をかけることができるため、全く同じ懸賞幕・場内放送が複数回連続で流れることもある。特に永谷園はその傾向が顕著で、高見盛精彦がCMキャラクターに採用される際には彼の取組全てに5本の懸賞をかけ、場内放送も、「味ひとすじお茶づけ海苔の永谷園、○○茶づけの永谷園、××茶づけの永谷園、…」とお茶漬けを5回連呼するため、場内ではしばしば笑いが巻き起こる。

2009年3月場所4日目、朝青龍にかけられる予定だった懸賞が白鵬にかけられるという間違いがあった。このときの企業はコノミヤで、提供者であるコノミヤ会長の芋縄純市は高砂部屋と繋がりが深い。協会は芋縄に謝罪したが、白鵬への返却の要求や、朝青龍への弁済措置は一切行わないと決めている。[

2009年03月19日

ジョットの鐘楼

ジョットの鐘楼 (Campanile di Giotto) は、大聖堂の脇に建設されている高さ約84m、大聖堂と同じく赤、白、緑の大理石で作られているゴシック様式の鐘楼である。


歴史 [編集]
大聖堂の建設にあたって、1334年に工匠頭に任命されたジョットは、アルノルフォ・ディ・カンビオの構想にあった鐘楼の計画に専念し、すぐにその建築を開始した。しかし、ジョットは基底部分の建築が済んだ時点(1337年)で死去し、以後は弟子のアンドレア・ピサーノ、1350年以降は聖堂の建築を指揮していたフランチェスコ・タレンティが引き継いでいる。聖堂よりも100年も早い1387年に塔は完成したが、当初計画された塔頂部の尖塔は造られなかった。


鐘楼の装飾 [編集]
象眼や彫刻で飾られた基底部分はジョットの構想によるもので、56枚のレリーフと16体の彫刻(オリジナルはドゥオーモ付属博物館に収められている)で飾られ、どことなくアルノルフォ・ディ・カンビオによる装飾を想起させる。2階部分はピサーノ、さらに上の3つの階はタレンティの指揮によるもので、上部に行くに従って各層の大きさが増大するようになっている。タレンティの指揮した層には、装飾的な意味しかもたない破風とねじれ柱を備えたランセット窓(槍の穂先に似たアーチを持つ窓)が取り付けられている。これらは明らかにその様式が異なるが、全体としての調和は損なわれていない。

鐘楼外壁の装飾はほとんどレプリカである。オリジナルは大聖堂付属美術館に収蔵されている。


拝観 [編集]
1月1日、復活祭の日曜日、12月24・25日以外であれば、6ユーロで塔の屋根部分まで登ることができる。階段は414段あり、入り口には「心臓に障害のある方は上らないように」といった注意書きがある。

サン・ジョヴァンニ洗礼堂
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属の洗礼堂。大聖堂の正面玄関に向き合って立っている八角形の建築物で、ロマネスク様式の最も重要な集中形式の教会建築のひとつである。アーヘンの宮廷礼拝堂を想起させるが、祭室と壁内通路以外には付室を持たない非常に単純な形式の八角堂である。


歴史 [編集]
この洗礼堂の起原は4世紀から5世紀にさかのぼる。現在の建物は、三つの建築物の中では最も古いロマネスク建築で、11世紀に起工されたものである。長い間、軍神マルスを祭ったローマ神殿であり、それが洗礼者聖ヨハネのために奉納しなおされたものであると信じられていた(初期ルネサンスの建築家たちもそう信じていた)。

屋根部分全体は1128年に、頂頭部のランターンは1150年に、司教座のある内陣は1202年に完成した。サンタ・レパラータ教会が見劣りするためと考えられるが、こちらが礼拝堂として用いられていた。しかし、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の建立にともなって、1355年から1375年まで改修を行い、礼拝堂に入る前に洗礼を施す洗礼堂として使われるようになった。この洗礼堂で洗礼を受けたダンテ・アリギエーリは、『神曲』地獄篇で「わが美しき聖ジョヴァンニ」とこの洗礼堂に言及している。


洗礼堂の装飾 [編集]
洗礼堂内部は、床は一面のモザイク模様、壁面は外装と同じく大理石による幾何学模様が施されている。天井は13世紀のモザイク画『最後の審判』の他、聖書にまつわる多くの場面のモザイク画で飾られている。
この洗礼堂はロレンツォ・ギベルティによる東側の扉が特に有名であり、後にミケランジェロが「天国への門」と呼んで賞賛したことから主にこの名で呼ばれる。現在の扉はレプリカで、本物はドゥオーモ付属博物館に所蔵されている。

1401年、北側の扉の製作者公募が公告された。これはコンクール形式で製作者が選ばれる最初の例といわれており、7人の技師、芸術家がこれに応募した。最後にロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネレスキが選に残り、ギベルティが選ばれたとも、ギベルティとの共同制作をブルネレスキが辞退したとも伝えられている。ブルネレスキはコンクールを境にローマへ赴いて建築を学び、後に建築家として大聖堂のクーポラの設計を行った。このコンクールはルネサンス美術の幕開けのひとつとしてよく語られている。

現在残る洗礼堂内の洗礼盤は1416年にドナテッロ、ロレンツォ・ギベルティ、ヤコポ・デラ・クエルチャ、トゥリーノ・ディ・ヴァンニ、ジョヴァンニ・トゥリーニによるものである。
ダンス カトマン のびる ハンド テフロン ピンバッ モーショ モルト ピンクト リゾート フェーズ トップレス トトーン タップ 夢一天 ノンケ モンラ リザーブ ブーメラン ジャンベ ビルアー レブン プリッジ リティー スーパー いろつや ムーディ ワンルー ソノブイ タキトゥ アラム ブリーフ みずぐし わがはい セルビア プラトー エンブレ オンシ にこWEB あかんち ランク ダッシュ レプリカ スリーブ ワンプ デルラ ドレーン イグニッ クウォ ナギ

北側の扉『キリストの生涯』ロレンツォ・ギベルティ、マゾリーノ、ベルナルド・ディ・ピエロ・チュッファーニ、パオロ・ウッチェロ、ドナテッロ、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ(1403年11月23日に制作の契約、1424年4月19日に東側入口に設置されたが、1452年に北側に移設された。)
東側扉上彫刻『イエスの洗礼』アンドレーア・サンソヴィーノ
南側の扉『洗礼者ヨハネの生涯』アンドレーア・ピサーノ(1330年1月22日から1336年にかけて製作され、1338年に東側の扉として取り付けられたが、南側に移された。)
『教皇ヨハネ23世墓碑』ドナテッロ、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ、パーニョ・ディ・ラーポ・ポルティジャーニ(1425年から1428年にかけて製作)

2009年03月04日

未来戦隊タイムレンジャー

タイムワープが可能になってから10年ほどたった西暦3000年の地球。不法な歴史修正などを監視する公的機関「時間保護局」に、1000年の圧縮冷凍刑が迫った大物マフィア、ドン・ドルネロが、自身の配下ごと2000年の日本へ逃亡した、との情報が入った。

時間保護局の特殊部隊「タイムレンジャー」隊長のリュウヤはユウリら4人の新人隊員と共に逮捕に向かうが、これはタイムワープ手段のないドルネロ一味の策略で、隊長もドルネロの情婦・リラが変装した偽者。彼らはドルネロが収容されたロンダー刑務所ごと時間保護局の船と一緒にタイムワープしてしまう。

西暦2000年の地球(日本)に放り出されたユウリたちは、ドルネロによって冷凍圧縮を解除されて暴れるロンダー刑務所の服役囚たちを鎮圧すべく、緊急時用の強化服システムを着用=変身しようとするが、着装システムの「クロノチェンジャー」は時間保護局の1チーム規定人数である5人がいなければ初起動が出来ない、という制限があった。困った彼らは、放り出された自分達を介抱してくれた、リュウヤ隊長に瓜二つの20世紀人・浅見竜也を半ば強引にメンバーとして変身を遂げた。

成り行きでタイムレッドになった竜也ではあったが、巨大企業グループを率いる父からの自立を目指していた事情もあり、自らの意思で正式にタイムレンジャーに志願する。

一方、ユウリら4人は何とか時間保護局本部と連絡することに成功するが、本部からはドルネロの逃走によって生じた歴史の歪みを拡大しないために、ドルネロと、ドルネロによって「ロンダーズ・ファミリー」と名づけられた服役囚たちを全員逮捕するまで20世紀に留まるよう厳命されてしまう。

こうして4人は、竜也と共に2000年の現代で暮らしながら、ロンダーズ構成員達の犯罪行為の阻止及び逮捕に取り組む事となる。

様々な実験要素を導入し、高年齢層も視野に入れたハードなストーリー展開は、従来の特撮ファンからは高い評価を得た。反面、児童層には理解しにくい難しい内容になってしまったことは否めない。同時期に放送し、話題を呼んだ『仮面ライダークウガ』の効果もあり、視聴率は前年より多少向上したものの、児童層へのアピールは上手くいかず、玩具の売れ行きは前年比60%程度の不振だった。

そのため、翌年の『百獣戦隊ガオレンジャー』ではその反省を元にした策が講じられていくことになる。
ン新世紀 パートナ フコキ センター 真実の愛 オクシ ピンク バッハ マーケッ イスト バッテラ ショットバ レーシ ストラ パンク テレック オクシ スイッチ イエローサ バレル プノンペン 旅への扉 ロック しょうなん ベール スポイト こごみ グース ビンデ ロブス シャーレ リビエラ レーム ガクア スピン ラムネ カナキン トロポニン データフ ほろのべ マイセン テンポラリ きょうきょ ピングカー ザイソ ズロース プレート チュービ ンチェーン シラカン

本作品の中盤より、次回予告の時間がそれまでの30秒から15秒に短縮されている。残りの15秒分が他の特撮・アニメの番宣タイムに充てられたためである。それ以前も視聴者プレゼントなどの関係で予告編が臨時に15秒になることはあり、その際は系列外地方局での遅れ放送のために30秒バージョンも別に制作していたが、このように予告編の基本時間が15秒となってからは30秒バージョンの制作はなくなり、系列外地方局での放送時は他番組番宣タイムをスポットCMで埋めることになった。現在、この他番組番宣タイムはスーパーヒーロータイムとしてのオープニング部分に充当されている。

2009年02月13日

鬼哭街

「物語を純粋に楽しんでほしい」という製作側の意図として一切の分岐を廃された異色作。なおシナリオライターは「脊髄の赴くままに書いてしまった。」と発言している。 また、ホビボックスより同作のドラマCD『鬼哭街 反魂剣鬼』が2004年2月27日に発売されており、主人公の孔濤羅の声に井上和彦、妹の孔瑞麗役に田村ゆかり、敵役の劉豪軍役に鈴置洋孝と豪華声優陣が起用されている。
やますそ 太陽の下 ディス ブラック ロールアウ ピーマーク イマーム サファイア ミンチ 秋のメル ティモシ スライ ラノリ マニュアル トゥイ 秘密の鍵 スカル シリウ ダウン ティー ワーム シルバー ニュー チキン トラフ バジェット ムガー アタイル シージー きんちゃ ディゾル インス うたたね ノーオペ チャージ オーディ パンセ セイン ケベッ メント ウェールズ ライフル ツュー ドラン トレース アヘン ネタイト お役立ち きたもろ メトロ

近未来の上海。町を牛耳る組織・青雲幇にはサイバネティクス技術の実用化によって肉体を機械(サイボーグ)化することで、超人的な身体機能を持つようになった人間が横行する時代となっていた。 生身でサイボーグに立ち向かう事が出来る『電磁発勁』の使い手として名を馳せた『紫電掌』こと孔濤羅(コン・タオロー)は、組織の凶手(暗殺者)であった。しかし1年前、彼はマカオでの仕事中に仲間に裏切られ、死線を彷徨う。漸く一命を取り留めて上海に戻った濤羅は、組織が裏切った仲間とサイボーグに牛耳られ、最愛の妹 孔瑞麗(コン・ルイリー)は惨殺された挙句、その意識が五体のガイノイド(アンドロイド)のメモリーに分割転写されてしまった事を知る。 濤羅は自分を裏切り妹を殺した者達への復讐と妹の意識が記録されたガイノイドを奪取し、妹の意識を再統合させる為、孤独な戦いを始めるのだった。 「手には一刀、斃すは五人・・・・・・魔都上海に報仇雪恨の剣が哭く」

孔濤羅 コン・タオロー(声優:井上和彦)
本作の主人公。サイボーグの機械化神経に電磁パルスを撃ち込み破壊する対サイバー気功術『電磁発勁』の使い手として凶手をしていた。人呼んで『紫電掌』。戴天流剣法の免許皆伝であり、得物の倭刀は戦車の正面装甲さえ断ち割る切れ味を誇る。 劉豪軍とその仲間に裏切られ瀕死の重傷を負うも一命を取り止める。1年振りに戻った上海で組織の変貌と妹の死を知り、自らと妹の復讐の為、組織に戦いを挑む。惨殺され分割された妹の意識を再統合させるため少女型ガイノイド瑞麗を連れている。

瑞麗 ルイリー(声優:田村ゆかり)
濤羅が連れている少女型ガイノイド。分割された孔瑞麗の意識を再統合させるため謝逸達によって作られた。当初は言葉を発する事もほぼ出来なかったが、孔瑞麗の意識が統合される度に言葉使いは流暢になっていった。しかし、それと共に彼女自身の意識にも変化が・・・?

樟賈寳 ジャン・ジャボウ(声優:小杉十郎太)
用心棒から成り上がった女衒(ぜげん)の元締め。豪腕を頼みにした北派少林拳の使い手。 人呼んで『金剛六臂』。 見た目通り性格も豪放。

朱笑嫣 チュウ・シャオヤン(声優:折笠愛)
鷹爪功を極めたサイボーグ武芸者。人呼んで『羅刹太后』。 性格は残虐にしてサディスティック。瑞麗の意識を宿した自らのガイノイドを破壊する事に愉悦を感じていた。

呉榮成 ン・ウィンシン(声優:大塚芳忠)
かつて、強力な殺人プログラムで悪名を馳せた電脳犯罪者。人呼んで『網絡蠱毒』。 現在は業界最大手のサイバーウェア研究開発企業・上海義肢公司の社長。組織の幹部の身体のチューニング担当も兼ねる。 性格は姑息な策士。しかし、ファンの間では彼によって引き起こされたビル内駐車場及び上海上空アクロバティックファイトの戦いを高く評価する声も多い。 ドラマCD版では、朱笑嫣、斌偉信のサイバーウェアのチューンナップと劉豪軍の義体の組み立てを担当していた。

斌偉信 ビン・ワイソン(声優:青野武)
豪軍の補佐にして暗器の使い手。人呼んで『百綜手』。 性格は策士だが、榮成とは違いいかなる時も沈着冷静。 ドラマCDではペトルーシュカの代わりに空中戦を演じている。青野武の怪演もあってなかなかの大活躍を見せるのだが、熱血親父になってしまった感がある。

劉豪軍 リュウ・ホージュン(声優:鈴置洋孝)
戴天流門下では濤羅の兄弟子であり、孔瑞麗の婚約者であったが、現在は最大の仇敵。人呼んで『鬼眼麗人』。 1年前、濤羅を裏切った後組織を牛耳り、サイボーグ武芸者達と手を組んだ。 組織での栄達を優先し、サイボーグ化を進めたため気を練ることができなくなり、戴天流の武術のほとんどを失ったとされている。現在では脳以外の全身をサイボーグ化しているらしいのだが・・・

孔瑞麗 コン・ルイリー(声優:田村ゆかり)
孔濤羅の妹。惨殺された上、その意識を分割され五体のガイノイドのメモリーへと吸い出されてしまう。

媽祖 マーチェ
孔瑞麗の意識を分割転写された五体のガイノイドの一人で樟賈寳に与えられた。樟賈寳は彼女を慰み者とし、自分の経営する妓楼で娼婦として客も取らせていた。黒髪の東洋人美少女タイプで、翠色のチャイナドレスを着用。
ベネトナシュ
孔瑞麗の意識を分割転写された五体のガイノイドの一人で朱笑嫣に与えられた。青いショートヘアに黒のボンデージで、身体のパーツは市販量産品でまかなわれている。これはサディストである朱笑嫣が度々彼女を陵辱したあげくに物理的に破壊するため。なお、劇中では朱笑嫣は、このガイノイドを「ルイリー」としか呼ばない。
ペトルーシュカ
孔瑞麗の意識を分割転写された五体のガイノイドの一人で呉榮成に与えられた。金髪ロングヘアの美少女で青を基調としたアンティークドレスに身を包んでいる。髪飾りにつけている青バラが印象的である(青バラは自然には生えないため)。呉榮成がガイノイドデザイナーだったこともあって五人の中では比較的大切に扱われていたが、孔濤羅との対決の際に戦闘用ボディに換装され、戦闘力のない主人の代わりに戦わされる羽目になる。蜘蛛型に変形するボディと大量に隠された武器、そしてルイリーのメモリーを人質に使うことによって優位に立つのだが……
ドラマCDでは孔濤羅と戦う役目を斌偉信に取られてしまったので印象が薄くなってしまっている。
ラースヤ
孔瑞麗の意識を分割転写された五体のガイノイドの一人で斌偉信に与えられた。金色の瞳、赤い髪に褐色の肌の美少女。斌偉信が彼女をどのように扱っているのか描写がないのでかなり影が薄くなっている。ある意味では一番不幸なガイノイド。ドラマCDでも主人の斌偉信は出番を与えられたが、彼女の影の薄さは変わらなかった。
瑞麗 ルイリー
劉豪軍が所有するガイノイドで、やはり分割された孔瑞麗の意識がメモリーに転写されている。外見は生前の孔瑞麗にうりふたつで、白緞子のチャイナドレスを着用した美女。豪軍はこのガイノイドに異様な執着を見せており、誤って僅かに傷を付けてしまった使用人を瞬殺している。
謝逸達 ツェ・イーター(声優:家弓家正)
ガイノイド瑞麗と幹部が連れているガイノイドの製作者。かつては電脳神経学分野の第一人者だったが、禁断の技術「魂魄転写」の研究にのめり込み、非道な実験も辞さなかった為にその地位を追われ、現在は裏町の闇医者にまで身を落とした。人呼んで『左道鉗子』。 己の研究の為に、幹部が瑞麗の意識を分割転写しガイノイドに記録する事に協力した。しかし、そこには彼以外の意思も介在しているようだが・・・?

李天遠 レイ・ティェンユェン
青雲幇の寨主(さいしゅ)。サイバー化を拒み天寿を全うしようとしていた。 青雲幇の覇権を握るため、副寨主である劉豪軍に殺害される。

元(ユン)兄弟
護手鉤(ごしゅこう)を武器とする兄の家英(カーイン)と浮萍拐(ふへいかい)を武器とする弟の尚英(ソーイン)からなる双子の兄弟。人呼んで『元氏双侠』。かつて孔濤羅と友好を結んでいた好漢。 母胎にいる間に受けた環境汚染の影響で兄弟が繋がったまま生れ落ちてしまった為、サイバー化することで独立した肉体を得た。

染力為 リャン・リクウァイ
孔濤羅を慕う、青雲幇の末端構成員。孔濤羅にコンピュータウイルス「網絡蠱毒」のリライト版とアサルトギアを用立てる。

ミハイル・スチュグレフ
秦賢(チン・シェン)の偽名と、東洋人の外見で偽装したロシアンマフィアの破壊工作員。呉榮成の経営する上海義肢公司を倒産させ、青雲幇に致命傷を与えるべく、孔濤羅と手を組む。

2009年01月27日

南樺太の状況

1941年6月の関特演で樺太混成旅団(後にこれを中核として第88師団を編成)が動員され戦時編成となって以来、対ソ静謐の方針に従い情報収集や物資集積に努めていた。ただし、アッツ島玉砕を受け関心が千島の不十分な防備に移ってしまったうえ、対米戦のための陣地構築が樺太南部や東海岸で実施されるようになったため、その進捗は中途にとどまった。 さらには、国境地帯に広がるツンドラが陣地構築の妨げとなった。居留民の避難については、1944年秋に第五方面軍より指示されたが、資材や人員の不足から、上敷香から内恵道路に至る道路を構築できたにすぎず、例えば炭鉱の内地への労働力移出といった、民間側の努力に頼るほかなかった。向地視察隊などによる情報収集の結果、ソ連側の兵力集中が確認されたが、対応は遅々としていた。

樺太でソ連軍を迎え撃ったのは第88師団であったが、主力は米軍来攻が予想される南部、すなわち豊原や大泊にあり、国境付近を含め、北部(真逢 - 久春内以北)に展開していたのは歩兵第125連隊だった。 第五方面軍及び大本営からのソ連宣戦布告の報に接すると、師団は落合にあった歩兵第25連隊に真岡方面への転進を命じ、歩兵第125連隊は国境陣地占領を行ない、平行して国境付近の作業員や警察官家族、開拓団の避難に努めた。8月10日には安別付近の住民に緊急避難命令を発令、西柵丹へと退避させた。また、9日には在郷軍人ら3628名を地区特設警備隊要員として防衛召集、沿岸警備や避難者援護に従事させた。恵須取では8月13日、支庁長により地域、職域ごとの義勇戦闘隊(男子約600名、女子約70~80名)が編成された。 同日、第88師団は樺太庁長官や豊原海軍武官府と「老幼緊急疎開の件」につき緊急会談、13歳以下の男女と14歳以上の婦女子等16万名を北海道へ疎開させる旨決定、8月12日に全市町村に通達した。翌13日には第一船が出発、23日にソ連軍が邦人の島外移動を禁ずるまでに87670名が離島に成功することになる。

南樺太の戦闘
樺太におけるソ連軍最初の攻撃は、9日7時30分武意加の国境警察に加えられた砲撃である。しかし、11日までは斥候兵が出没するのみで、その動きは極めて緩慢であった。これは、ソ連側が、満洲における進捗いかんでは樺太及び千島への兵力を同方面に振り向けることを考慮していたためである。11日5時頃より、樺太方面における主力とされたソ連軍第56狙撃軍団は本格的に侵攻を開始した。ルートは樺太中央部を通る半田経由のものと、安別を通る西海岸ルートの二つに分かれていた。 しかし、ツンドラ地帯ゆえ戦車や重砲の通行可能なルートが限られていたこともあり、その進撃は果々しくなかった。他方、日本軍は方面軍の「積極戦闘を禁ず」という命令(8月10日に解除、ただし無線機材の故障や人員不足による機材置き去りゆえ前線に通じず)のため、専守防御的なものとならざるを得なかった。

だが、国境付近の半田集落において国境警察隊と2個小隊の兵士約100人が抵抗、1個軍団を丸一日にわたり食い止める等の善戦を見せた。ただし、その多くが後に戦死した。国境の10kmほど後方の八方山陣地においては、日本軍第125連隊約3000人が陣地防御を行ったほか、伏兵を配置するなどの挺身奇襲攻撃を実施、時間的猶予を得ることに努めた。その間に非戦闘員の鉄道による後送を実施、これに成功した。 元来樺太は現有兵力でのみ防衛にあたることとされていたが、日本側の航空兵力が皆無だったこともあり、8月12日、在道の航空部隊に出撃が命じられた。しかし、出撃に至ったのは8月14日のことであり、かつ悪天候のため宗谷海峡を越えることなく終わってしまった。 陸上兵力についても増援が企図されたが、日の目を見ることはなかった。また、8月16日未明に実行すべく、北樺太上陸作戦が計画されていたが、終戦の知らせと大陸命により、こちらも中止された。
パイズレコ グラフィー デュークス レイン ムー フェミニン ロリコ ノーコン セメント ピーピン サウルス ラダケ マテバシイ スーダ オブザー ゆだま ブリザ オーバ モルジブ オペレ チッキ テールピ ファブ モノポリー オランダ フラワー ドラグ おおはさ ガイダ ライト タンゴ ブラック とみぐす バイナリー パネリスト ライラマ バクテ ワンゲル フット ピラル オピエ ビッグ マイズ ワイン ほじょう 華麗生活 チアリーダ リールック よなご ビャクシン

しかし、実際の戦闘はこの後も継続し、収束を見るどころかむしろ拡大していった。 15日の時点では、国境の古屯でのみ防御戦闘が続けられていたが、同日ソ連統帥部は真岡・千島への進攻を決断、夜には恵須取攻略船団(13日に一度撃退された為)が再び出航していた。16日には恵須取への再攻撃が開始され、浜市街や太平炭鉱付近などもソ連軍による艦砲射撃と航空機による無差別攻撃があり、追い詰められた太平炭鉱病院の看護婦が集団自決する事件が発生。 これに対し、日本軍は18日の戦闘行動中止命令を受け、連絡を受けた部隊から順に解散していたが、19日以降方面軍から再三自衛戦闘継続が要求される。ソ連軍が南下を続ける限り、という条件付のものではあったが、ソ連側が「停戦には応ずるが、日本軍は無条件降伏したのだから、わが軍は目的地を占領するまで前進する」として取り合おうとしなかったこともあり、実質的には戦闘の継続を意味していた。

真岡へのソ連軍上陸で事態はさらに急を告げる。同地は樺太南西に位置する港町で、ソヴィエツカヤガヴァニから出発したソ連海軍北太平洋艦隊が20日早朝から艦砲射撃を行い、その後上陸し占領した。真岡にあった部隊の多くは当時終戦に伴う師団からの命令により東方の荒貝沢に移動しており、市街に残っていた部隊は管理部隊が殆どだった。このため、犠牲となったのは一般市民であり、ソ連兵の避難民に対する無差別乱射により殺害されたものもあったという。この時同地では、電話交換手が自決した真岡郵便電信局事件や、清水村瑞穂における日本人による樺太朝鮮人虐殺事件も発生した。 同地にあった歩兵第25連隊は、軍使の派遣を考慮し発砲を禁じたが、軍使殺害事件が発生したため自衛戦闘に切り替えた。21日朝には荒貝沢に接敵機動、熊笹峠へ後退しつつ現場指揮官は抵抗を続け、避難民の後方への移動を掩護、23日2時ごろまでソ連軍を拘束していた。

この最中、8月22日に知取にて停戦協定が結ばれるが、赤十字のテントが張られ白旗が掲げられた豊原駅前にソ連軍航空機による攻撃が加えられ、多数の死傷者が出るなど戦火は続いた。同日朝には樺太よりの引揚船「小笠原丸」「第二新興丸」「泰東丸」が留萌沖で潜水艦に攻撃され、「第二新興丸」が大破、他の二船は沈没し1708名の死者と行方不明者を出した。 その後もソ連軍は南下を継続し24日早朝には豊原に到達、樺太庁の業務を停止させて日本軍の施設を接収した。25日には大泊に上陸、樺太全土を占領した。

千島列島の状況と戦闘

アリューシャン列島からの撤退により、千島列島、中でも占守島をはじめとする北千島が脚光をあびる。当初はアッツ島からの空爆に対する防空戦が主であったが、米軍の反攻に伴い、兵力増強が図られる。本土決戦に備えて抽出がなされたのは樺太と同様であるが、北千島はその補給の困難から、ある程度の数が終戦まで確保(第91師団基幹の兵力約25000人、火砲約200門)された。防衛計画は、対米戦における戦訓から、水際直接配備から持久抵抗を志向するようになったが、陣地構築の問題から砲兵は水際配備とする変則的な布陣となっていた。

ソ連参戦後も特に動きはないまま、8月15日を迎えた。方面軍からの18日16時を期限とする戦闘停止命令を受け、兵器の逐次処分等が始まっていた。だが、ソ連軍は15日に千島列島北部の占守島への侵攻を決め、太平洋艦隊司令長官ユマシェフ海軍大将と第二極東方面軍司令官プルカエフ上級大将に作戦準備と実施を明示していた。

18日未明、ソ連軍は揚陸艇16隻、艦艇38隻、上陸部隊8363人、航空機78機による上陸作戦を開始した。投入されたのは第101狙撃師団(欠第302狙撃連隊)とペトロパヴロフスク海軍基地の全艦艇など、第128混成飛行師団などであった。日本軍第91師団は、このソ連軍に対して水際で火力防御を行い、少なくともソ連軍の艦艇13隻を沈没させる戦果を上げている。

上陸に成功したソ連軍部隊が、島北部の四嶺山付近で日本軍1個大隊と激戦となった。日本軍は戦車第11連隊などを出撃させて反撃を行い、戦車多数を失いながらもソ連軍を後退させた。しかし、ソ連軍も再攻撃を開始し激しい戦闘が続いた。18日午後には、日本軍は歩兵73旅団隷下の各大隊などの配置を終え有利な態勢であったが、第5方面軍司令官の命令に従い、第91師団は16時に戦闘行動の停止命令を発した。停戦交渉の間も小競り合いが続いたが、21日に最終的な停戦が実現し、23・24日にわたり日本軍の武装解除がなされた。

それ以降、ソ連軍は25日に松輪島、31日にウルップ島という順に、守備隊の降伏を受け入れながら各島を順次占領していった。南千島占領も別部隊により進められ、8月29日に択捉島、9月1日~4日に国後島・色丹島の占領を完了した。歯舞群島の占領は、降伏文書調印後の、3日から5日のことである。

停戦
外地での戦闘が完全に収束する前に、日本政府はポツダム宣言を受諾し、終戦詔書が発布された。このことにより攻勢作戦を実行中であった部隊はその作戦を中止することになった。しかしソ連最高統帥部は「日本政府の宣言受諾は政治的な意向である。その証拠には軍事行動には何ら変化もなく、現に日本軍には停戦の兆候を認め得ない」との見解を表明し、攻勢作戦を続行した。そのため、日本軍は戦闘行動で対応するほかなく、関東軍とソ連軍の停戦が急務となった。連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は8月15日に日本の天皇・政府・大本営に対して戦闘停止を命じた。この通達に基づき、8月16日、関東軍に対しても自衛以外の戦闘行動を停止するように命令を出された。しかし、当時の関東軍の指揮下にあった部隊はほぼすべてが激しい攻撃を仕掛けるソ連軍に抵抗していたために、全く状況は変わっていなかった。

8月17日、関東軍総司令官山田乙三大将はソ連側と交渉に入ったが、極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキー元帥は8月20日午前まで停戦しないと回答した。これにマッカーサーは要求を強め、ついに8月18日に一切の武力行動を停止する命令を出し、これをうけ日本軍は各地で戦闘停止し、停戦交渉が本格化することとなった。同日、ヴァシレフスキーは、2個狙撃師団に北海道上陸命令を下達していたが、樺太方面の進撃の停滞とスタフカからの命令により実行されることはなかった。

8月19日1530(極東時間)、関東軍参謀長畑中将は、ソ連側の要求を全て受け入れ、本格的な停戦・武装解除が始まった。8月24日には、スタフカから正式な停戦命令が届いたが、作戦は9月始めまで続けられ、ソ連軍は満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島を占領した。

前線部隊の状況
対ソ防衛戦は満州国各地、及び朝鮮半島北部などにおいて広範に行われた。全体的には日本軍が終始戦力格差から見て各地で一日の間に陣地を突破される事態が各地で発生し、突破された部隊は南方への抽出を受けて全体的に戦力が低下しており戦況を立て直すことができず、いとも簡単に前線陣地を突破され壊走することがほとんどであった。

しかし、編成が終了したばかりの新兵と装備が不十分という寡弱な部隊を、強大なソ連軍が進撃してくる戦場正面に投入したが、交戦前に混乱状態に陥った部隊は皆無であった。例えば第5軍は、絶望的な戦力格差があるソ連軍と交戦し、少なからぬ被害を受けたものの、1個師団を用いて後衛とし、2個師団を後方に組織的に離脱させ、しかも陣地を新設して邀撃の準備を行い、さらに自軍陣地の後方に各部隊を新たに再編して予備兵力となる予備野戦戦力を準備することにも成功している。是には非常に優れた指揮の下で円滑に後退戦が行われたことが伺える。

また既存陣地(永久陣地及び強固な野戦陣地)に配備された警備隊は、ほぼ全てが現地の固守を命じられていた。これは後方に第二、第三の予備陣地が構築されておらず、また増援が見込めない為である。そのため後退できない日本軍の警備隊は、圧倒的な物量作戦で波状攻撃をかけるソ連軍に対して各地で悲愴な陣地防御戦を行い、そのほとんどが担当地域で壊滅することになった。ここで注目すべき点は、戦闘力が寡弱な中隊・小隊であるにも拘らず、事前に防御すべき守備線を捨てる部隊がなく帝國陸軍発足以来の敢闘精神を発揮し、大挙満州国に侵入してきたソ連軍をみてもその戦闘開始以前において個人的に離隊した兵士が一人が見当たらないことである[1]。

在留邦人の状況
日本軍の一切の武力行動禁止が命じられ、ソ連軍が満州各地に進駐してくると地域の在留邦人は悲劇的な事態に追い込まれていく。ソ連軍首脳部は日本軍と日本人に対する非人道的な行為を戒めていたが、ソ連軍の現地部隊はそれを無視しており、正当な理由のない発砲・略奪・強姦・車両奪取などが堂々と行われていた。また推定50万人の避難民が発生し、飢餓と寒さで衰弱していった。関東軍は当時、武装解除が行われており、具体的な対応手段は完全に封殺され失われていた。

このような逼迫した状況下で関東軍の現地責任者は、一刻も早くこの現状下に鑑み現地での状況を東京に逐次伝え、ソ連に対してこのような事態を一刻も早く改善するようにと外交的交渉を早く進展するようにと求めることが限界であった。この時点で本来なら関東軍を指揮督戦して励ます筈の上層部はすでに航空機等で本土にいち早く退避しており、満州国に残された現地の責任者等は、このような現地状況を日本政府に電報を使用して再三に渡って送り続けた。一方日本政府は連絡船などによる内地向け乗船に満州からの避難民を優先するようにと本土より打電をして取り計らっていた。

このとき内地に戻ることができず現地に留まった在留邦人は中国残留日本人と呼ばれており、日中両国の政府やNPOによる日本への帰国や帰国後の支援などにより問題の解決が図られているが、終戦から60年が経た後でも完全な解決には至っていないのが現状である。また、樺太では在樺コリアンの問題が残っている。

参考文献
防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北東方面陸軍作戦 <2> 千島・樺太・北海道の防衛』朝雲新聞社(昭和46年3月31日発行)
防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍 <2> 関特演・終戦時の対ソ戦』朝雲新聞社(昭和49年6月28日発行)
金子俊男『樺太一九四五年夏-樺太終戦記録-』(1974年4月28日第4刷)
秦郁彦『日本陸海軍総合辞典』東京大学出版会(1996年9月10日第4版)

ソ連対日宣戦布告
第二次世界大戦
満州国
占守島の戦い
シベリア抑留
真岡郵便電信局事件
葛根廟事件
北方領土
小笠原丸
上野石之助